書了置地

習作の保管場所(Web)

海辺の光

 十二月の海は静かだった。
 辺りはすでに暗く、波の音のほかに聞こえるのは、海沿いの道を通る車の音くらいのものだった。
 渡辺紘一は腕時計で時間を確認すると、助手席のシートに座りじっと海を眺める女の横顔を見た。暖房をつけているとはいえ、寒さを完全に防げるほど紘一の車は新しくも上等でもない。その車内で女は時折まばたきをする以外、人形のように同じ姿勢で無言のまま、もう一時間はそうしていた。
 紘一は名前も歳も住所も、女に関することをなにひとつ知らない。唯一わかっているのは女が、紘一がこれまで見たことのないほど美しいということだけだった。透きとおるほどに白い肌、黒目がちな瞳、すっきりとした顎のライン。それはある種の超常現象といっていいほどだった。
 二時間ほど前、紘一が仕事帰りにいつも立ち寄るコンビニでホットコーヒーを買い車の中で一息ついているところに女は現れた。軽く窓を叩かれ、思わずパワーウィンドウを開けた紘一に女は言った。
「海へ連れていってくれないかしら」
 どう反応していいかわからないまま、紘一は女の瞳を見た。普段なら女性の目をじっと見つめることなどできないが、女の目には視線を逸らせない強い引力のようなものがあり、結局困惑したまま頷くしかなかった。
 コンビニから海までは二十分ほどのドライブだったが、その間も紘一の困惑と混乱はよりその度合いを強めた。信号待ちで停車する度に盗み見るように助手席の女の様子を窺う。女は真っ直ぐ前を見たまま終始無言で、海に連れていけという言葉以来、自分のことはおろか紘一に対する質問さえ口にしない。紘一も他人とのコミュニケーションを積極的にとれる方ではなかったから車内は終始沈黙が支配していた。
 左には無秩序に飛び出した木々から続く山があり、右手には暗い海が見える。リアス式海岸特有のくねくねと蛇行した海岸線には階段があり、そこを降りると砂浜になっている。紘一は海側の路側に車を止めた。
 冬の海風は冷たいが、海に連れていけというぐらいだから降りて砂浜へ行くのかと思っていた。しかし女はシートベルトを外しただけでそれ以降動こうとしない。紘一の方を見ることもなく、ただ視線を海へと投げかけるだけだった。その表情からは感情を読み取ることができず、紘一も諦めてシートベルトを外し、コーヒーを一口飲むと同じように海を眺めた。
 ようやく女が口を開いたのは、紘一が時間を確認して三十分も経った頃だ。視線を海から紘一に移し、
「静かでいいところね」
 と澄んだ声で抑揚なくそう言った。
「そ、そうですか」
 今日まで二十年と半年の間、この町で生まれこの町でいつか死ぬ。そのことを意識の外でゆるく受け入れて暮らしてきた紘一にとって、この町の静けさはごく当たり前のもので、それに対して特別な感情を抱いたことはない。
「ねえ、あなたの話を聞かせて。あなたの人生のこと」
 人生という言葉が紘一を刺激する。はたして自分に人生と呼べるような歩みがあっただろうか? 心の中で自分自身に問いかける。
「僕は、この田舎町で平凡に暮らしてきたんです。きっとどこにでもあるようなありふれた話しかできない」
「人が生きていれば何かはあるはずだわ。たとえそれが劇的じゃなくても」
 女は紘一の目を真っ直ぐと見つめ言う。紘一は不思議と何か話さなければならないような気持ちになり、思い出を手繰りながら語りはじめた。

 

 ☆

 

 一九九五年六月、紘一は会社員の父和博と専業主婦の母香苗との間に生まれた。彼らにとってはじめての子供であった紘一は、両家にとって初孫で、多くの祝福の中誕生した。初産にして医者も驚くほど楽な出産で、産後も母子ともに健康だった。病院を退院した彼らは親子三人、結婚を機に両家が資金を出し合い新築したばかりの一軒家で暮らしはじめた。
 紘一は夜泣きもあまりせず、寝返りやつかまり立ちも早い、手のかからない子供だった。オムツも他の同年代の子供よりはるかに早く取れた。そんな紘一を両親はいい子だと思っていた半面、つまらないとも感じていた。周りの夫婦に聞いていた子育てに奮闘する日々とはまったく違ったからだ。物足りなさはやがて紘一への興味も薄くしていった。
 紘一が三歳になった頃、母に二人目の妊娠が判明した。
 このことは両親を大いに喜ばせた。決して口にはしなかったが、彼らは今度こそ育児の大変さが味わえると思ったのだ。はたして両親の望みは現実になった。紘一が四歳の誕生日を迎える一月ほど前に生まれた弟は達也と名づけられ、夜は火がついたように泣き、昼間も常に誰かが抱いていないとぐずった。両親は困ったものだと言いながらも嬉しそうに達也に構って、紘一は一人で遊ぶことが増えた。
 弟が生まれてからというもの、そちらに掛かりきりな両親だったが、紘一が達也に対して嫉妬することもなく、兄弟でよくある母を独占したい上の子が下の子にいじわるをするということもなかった。紘一は両親の喜ぶ姿を見るのが嬉しかったのだ。
 家族四人の日々は続き、紘一の小学校入学式の日、達也が熱を出し、母は出席できなかった。しかし、両親にとって邪魔にならない「いい子」であることが習い性のようになっていた紘一はそのことに不満を唱えるようなこともなかった。
 そうして自我を抑圧して過ごす少年時代だったが、両家、特に父方の祖父母は初孫であり長男である紘一に優しかった。祖父の清は町役場勤務から町議会議員になった人で、厳格だったが、その中に優しさを感じ取ることができた。祖母花江はそんな祖父を支え、父と叔母を育てた良妻賢母を絵に書いたような人だった。年に二度、盆と正月に父方の実家に帰省するときが紘一にとっていちばんの心休まる時間だった。祖父母が暮らす家の、古い日本家屋独特の匂いが好きだった。
 議員を引退した祖父が、長年のしがらみがある地元を離れ、他県の海辺の田舎町に新しい家を建てたのは、紘一が小学校三年の頃だ。その町は、規模は違うものの紘一たちが暮らす町とどことなく雰囲気が似ていた。潮の臭いとどこか疲れたような町並みがそう感じさせたのかもしれない。春先に完成した祖父母の終の棲家は、こぢんまりとした造りながら、祖父の性格を表したかのように質実剛健といった風情だった。その年の夏休み、達也が夏風邪を拗らせ入院したため、紘一は一人で一週間祖父母の家へ泊ることになった。
 朝早くに自宅を出て父の運転する車で祖父母宅へ向かう途中、紘一は後部座席に座っていたがいつの間にか眠ってしまった。目を覚ますと窓の外は見慣れない景色で、車内は冷房がきいていて涼しいが太陽が高くなっており、外は暑そうだ。父が交差点を左折しながら言う。
「起きたか。もうすぐ着くからな」
「うん」
 紘一がまだ少し重い瞼を手の平でこすりながらそう小さく返事をすると、父子の会話はそれで途切れた。母がいればまた別だが、互いに積極的に関わろうとしてこなかった父と息子の間には、慣れない者同士故のぎこちなさがあり、お互いにどう扱っていいのかわからないのだった。
 大きな県道から脇道に入ると、道幅が狭くなり青々とした田んぼが両側に広がる。その狭い道をさらに進むと海が見えた。海沿いに身を寄せ合うようにして大小の民家があり、個人経営の小さな商店もあった。父は漁師たちが船を停める波止場の駐車場に車を置いた。そこから祖父の家まで歩く。
 祖父母宅へ向かう道は大人二人がなんとかすれ違えるくらいの狭いもので、山に向かうなだらかな上り坂になっていた。狭い道幅のため常に日陰になってはいるものの、父の背中にはシャツが貼りつき、紘一の額にも玉のような汗が浮かぶ。
 祖父母宅の小さな門を開け敷地内に入ると、祖母の趣味の家庭菜園があり、瑞々しいトマトやきゅうりなどが実をつけていた。父がインターホンを鳴らすと、家の中から祖母の「はーい」というのんびりとした声がする。
「遅かったわね。電話くれたら波止場まで迎えに出たのに」
「このへんカーナビに載ってなくてね。ちょっと迷いながらきたんだ」
 あらまぁという顔をしながら祖母が頷き紘一に声をかける。
「こうちゃんもお疲れさま。いらっしゃい」
 やわらかな笑顔で迎えてくれた祖母に紘一も「こんにちは」と返す。
「母さん、すまない。俺も仕事が忙しいし、香苗は達也に付きっきりになってしまうもんだから」
 開け放した窓から心地良い風が入る居間で、父はさして申し訳なさそうでもなく淡々と言う。麦茶のグラスが薄らと汗をかきはじめていた。慣れているのか、そんな父の口ぶりなど気にする様子もなく祖母がこたえる。
「いいのよ、気にしないで。私もお父さんも時間はあるんだし、小さな子供二人抱えて香苗さんも大変でしょう。それに孫と一緒に過ごすのはじじばばの楽しみなのよ」
 それからひとしきり達也の病状や祖母の世間話に付き合うと父は帰っていった。
 玄関まで父を見送った祖母が、縁側で夏休み前に学校の図書室で借りてきた本を読んでいた紘一に話しかける。紘一は父を見送らなかった。泣いてしまいそうな気がしたのだ。
「こうちゃん、ちょっと早いけどお昼にしようか。もうすぐおじいちゃんも帰ってくるから」
 しばらくして買い出しから帰った祖父は「よく来たな」と紘一の頭を撫でた。買い物袋を祖母に渡すとダイニングテーブルの椅子にどっかと座り、祖母が出した麦茶を美味そうに一息で飲み干す。
「和博は」
「もう帰りましたよ。あなたにもよろしくって」
「そうか」
 祖父は憮然とそう呟くと、開襟シャツの胸ポケットから煙草を取り出し火をつけた。
 昼食に素麺を食べた後、祖父に連れられ歩いて海へ行った。そこで祖父は流木に座り煙草を吹かし、紘一は祖父が貸してくれた大きな麦わら帽子を被り蟹を捕まえたり石をひっくり返したりして遊んだ。
 ひとしきり遊んだあとは祖父について海沿いを散歩した。まだまだ盛んな太陽が水面に反射してキラキラと光り、そこに時折大小の船が行き来する。紘一にはその船がどこへ向かうのか見当もつかない。海の広さを想像するだけで、なにか途方もないことのような気がした。
 祖父母の家に戻ると、夕飯の支度をしていた祖母がエプロンで手を拭きながら迎えてくれる。
「おかえりなさい。暑かったでしょ」
「ただいま。風呂沸いてるか」
「あらあら、二人とも汗びっしょりね。もう沸く頃だと思いますから、こうちゃんと一緒にどうぞ」
 祖父と二人風呂に入り、祖母が用意してくれていたパジャマに着替え台所へ行くと、ダイニングテーブルの上には、イサキの天ぷらやヤリイカの刺身、鯵の南蛮漬けなどが食べきれないほどに並べられていた。
 三人でテーブルに着き食べはじめる。祖母の料理はどれも絶品で正直母の作る料理の数倍美味しかった。「どんどん食べてね」と言う祖母が思っているほど紘一は食が太くなかったが、それでも自宅での食事よりも多く食べた。背筋をピンと伸ばし椅子に座る祖父は七十近い年齢を感じさせないほどよく食べた。
 その晩、新品の寝具に寝転がって眠るまでの時間を過ごしながら、紘一は普段自分の家で過ごす夜よりも心が軽いことに気がついた。その理由は幼い彼にはまだわからなかったが、自分を抑圧しなくてもよい環境というのが祖父母の家にはあったのだ。紘一は幸福な気持ちのまま眠りについた。
 それからの一週間は少年時代の紘一にとって一番子供らしい日々だった。朝は近所の子供に混じってラジオ体操をしたあと、家に戻り祖母の作った朝食を食べる。それから夏休みの宿題をやって、少し休憩すると昼食。午後からは祖父と海へ出かけた。
 海へ行くと地元の子供たちと一緒になって遊んだ。小学校高学年の史郎という少年が、内気な紘一の手を引いて輪に入れてくれたのだ。彼は地元の子供たちを束ねるリーダーのような存在で、いつも遊びの輪の中心にいた。紘一もすぐに他の少年たちと同じように「シロ君」の後をついて回るようになり、そうするうちに他の子供とも打ち解けることができた。
 達也の具合が良くなり紘一が自分の家へ帰る前日。史郎をはじめ仲良くなった少年たちとその保護者とで浜辺でバーベキューをした。史郎の父親は漁師で、大きなクーラーボックスに沢山の魚介類を入れて持ってきた。他にも各家から野菜や肉が持ち寄られ、網と鉄板で次々に焼かれる。誰かの家の母親が取り皿にどんどんと追加する食べ物を子供も大人もどんどん食べた。肉はあっという間になくなり、焼きそばもすぐになくなった。彼らの食べっぷり飲みっぷりはとても気持ちがよかったし、紘一も勢いに圧倒されながら、それまでを思えば考えられないほどの量を食べた。
「この子があんなに食べるのははじめて見た」
 祖父が史郎の父親と並んでディレクターチェアに腰を掛けながら言う。
「子供は食べないとだめです。よく食べてよく遊んでよく学ぶ。うちのは勉強はあんまりしないですけどね」
 史郎の父親は日頃の仕事で焼けた肌にアルコールが入って赤黒くなった顔を少しだけ祖父の方へ向けると、田舎の父親らしい張りのある声で笑いながらそう返す。
 近くの流木に座って火を眺めていた紘一に二人の会話が聞こえてくる。
「あの子は優しすぎるから自分の家では弟や両親に遠慮しているみたいだが、史郎君たちに遊んでもらううちに子供らしい顔になった。よく笑うようにもなった。本当にありがとう」
 祖父が頭を下げる。
「子供同士はすぐ仲間になれますから」
「私はあの子の父親とその妹を必死に育てたつもりだが、よくよく思い出してみれば子供たちとこんなふうに楽しく食事をした記憶がない。毎日毎日仕事仕事で、休みの日にも付き合いだなんだと家を空けることも多かった。冷たい父親になってしまっていたのかもしれないと後悔することも多くてね。あの子の父親も同じ間違いをしているのではないかと不安に思うこともあるんだ。紘一はおとなしい子供だから何も言えず苦しんでいるんじゃないかと心配にもなる」
 祖父の言葉に史郎の父親は、今度はしっかり目を見て返す。
「俺たち親父は子供と嫁さんを食わせるのが一番の仕事です。古い考えだって文句を言う人もおるかもしれんですが、それが正しい道やと俺は思っとります。俺も漁に出て長ければ半年家に帰らんこともあります。そんときはそりゃあ寂しいですよ、正直。でも俺が居ない時は嫁さんがしっかりやってくれるし、だから俺はなんの心配もせんで海に出れる。それを子供は見とってくれると思っとります。息子さんがどんな人かはわからんけどオヤジさん見てたらそんな悪いやつじゃないんじゃないかって思いますけどね」
 祖父は無言で頷くと、持っていた缶ビールを呷った。
 子供たちが花火を見つけはしゃいでいる。ヒュゥンというロケット花火の音。他の子供たちと一緒に手持ち花火で円を描き遊ぶ紘一は幸せそうだった。

 

 ☆


「家族のことは好きだったし、一緒にいられることが嬉しかった。でも、この時過ごした時間っていうのは忘れられません」
 紘一が話す熱気と暖房の熱で曇った窓は、まるで記憶をたどる道にかかる靄のようだ。それを掻き分けて話す紘一の不器用な語り口は誠実で、ぽつぽつと言葉を探しながら話すのを女はただ黙って聞いている。表情は優しげで、どことなく悲しげでもあった。深みを増したように見える瞳は紘一の口から言葉を呼び出しているかのようだ。女が言う。
「素敵な人たちだったのね。あなたのことを大切に思ってたんだわ」
「はい。二人とも本当に優しい人たちだったし、あの時知り合ったあの町の人たちも、本当にいい人たちばかりだった」
「あなたにとって忘れられない大切な人たちなのね」
「そうです。だから祖父が亡くなった時は本当に悲しかった」
 女は慈しむような目で紘一を見つめる。やはりどこまでも美しい。
「あなたの話とても好きだわ。ねえ、もっと聞かせて」
 その女の言葉で紘一はまた語り出す。不思議な心地良さが体を包んでいた。

 

 ☆

 

 二〇〇九年夏。小学校を卒業し地元の公立中学へと入学した紘一は、中学二年生になっていた。小学校の頃は前から二・三番目だった身長は大幅に伸び、中学からはじめた陸上競技によって少しずつだが筋肉もついていた。それでもやはり内向的な性格は相変わらずで、クラスに溶け込めていないわけではないが、特に親しいと呼べる友人はいなかった。
 そんな紘一にも思春期らしい悩みがひとつあった。初恋だ。
 その少女は、クラスは違うが同じ陸上部に所属する山岸亜美という同級生で、走り幅跳びの選手だった。三〇〇〇メートルを主戦場とする紘一とは練習での接点はほとんどなかった。
 ある日の部活中。走り込みのために学校の外周を走り、疲れ果ててグラウンドに戻った紘一の目に、細く白い体を砂まみれにして楽しそうに跳躍する亜美の姿が飛び込んできた。彼女は肩で呼吸をしながら、後ろで結んでいた髪を解き、ざっくりとかき上げ結び直した。その仕草に見惚れてしまい部活が終わるまで知らず知らずのうちに彼女の姿を目で追っていた。その夜から、陽が傾きかけたグラウンドで跳躍する彼女のシルエットが頭から離れなくなったのだ。
 翌日、気がつけば紘一の目は彼女の姿を探していた。部活の時だけでなく移動教室で彼女の教室の前を通る時、昼休みの校庭や登下校の道で、彼女の姿を探した。それが紘一にとって最大限の恋の表現行動だった。
 家での生活は変わらず、家族の中心には達也がいて両親と紘一がいる。達也が生まれた頃からずっとそうしてきた。それが定着して紘一たち家族の形になっているのだった。紘一にとって家族はなにより大事なものだった。たとえその関係性が希薄で多少の歪さを含んでいたとしても、それでも自分を生み育ててくれている両親とその両親が大切にしている弟を紘一は愛していた。それに十四歳の少年には自分自身が最終的に帰属する場所はそこにしかないように思えたのだった。
 学校の成績は可もなく不可もなく。もっと努力すれば今以上の成績も狙えただろうが、それによって目立つことを紘一は嫌った。この控えめを通り越し、やや卑屈な考えの底には思春期特有の歪んだ自意識があった。
 その日の紘一はいつにも増して不調だった。夏の大会を目前に控え周囲の運動部の生徒は気合が入っていたが、紘一は心と頭がどこかふわふわとして、それが体にも影響を及ぼしているようだった。日に日に強さを増す太陽と、昼間にじんじんと焼かれたアスファルトの熱のせいかもしれないし、あるいは女の子に心を奪われているせいだったかもしれない。どちらにせよ紘一にとっては戸惑うばかりだった。それまで夏に体調を悪くしたことなどなかったし、ましてや恋などこれが初めてのことなのだ。
 そうしてふらふらと外周を走っていると不意に左足首に痛みがはしった。思わずうっという声が漏れる。二三歩進んだところで痛みに耐えられず立ち止まった。自転車置き場の前の植え込みの縁に腰掛け足首を確認する。どうやら気づかないうちに小石かなにかを踏んで足を挫いたらしかった。紘一は大きく息を吐き、軽く首を振った。
 痛む足をどうにか地面に着けずに歩こうとしていると、春に入部した一年の宮部が通りかかった。
「渡辺先輩どうしたんすか? 足やっちゃったんすか」
 一年の宮部がそこにいた。宮部は普段からくるくると巻いている天然パーマの髪の毛を汗と風でさらにぐちゃぐちゃにして、大きな丸い目をきょろきょろとさせながら尋ねる。
「俺肩貸しましょうか」
「いや、いいよ。それより悪いんだけど誰か人を呼んできてくれないか」
 申し出は嬉しかったが、小学校を出たばかりの彼と紘一では身長が違い過ぎて支えてもらうには不安だった。
「わかりました。そこの植え込みのとこに座っててくださいね。すぐ呼んでくるんで」

 そう言うと宮部は校内を突っ切るようにして走っていった。紘一はぼんやりとする頭で、どくどくと脈を打つような足の痛みを感じながら、西の空にしがみつく太陽を睨んだ。
「どうしたんだ。自分で歩けないのか?」
 宮部に連れられやってきた顧問の鈴木は、三年の担任を務めているからか、このところ部活にはあまり顔を出さない。受け持ちの生徒たちの高校受験を控え、自身の評価が決まる大事な時期に大して強くもない部活動になど構っている余裕はないのだろう。面倒臭そうな雰囲気を隠そうともせずに紘一の目ではなく足を見ながら言う。その冷たい視線は紘一を委縮させるのに十分で、たまらなく嫌だったが一人では歩けそうにない。
「すみません。無理です」
 なんとか絞り出すようにそう答えると、鈴木は小さく舌打ちし紘一の左腋に腕を差し入れる。
「ほら立て。保健室に連れて行ってやる」
 鈴木は紘一の痛みなど無視するようにずんずんと進む。右足が追い付かず左足が地面に触れる度に痛んだ。額に脂汗が浮かんだが、ゆっくり歩いてくれとも言えなかった。
 保健室に着くと二脚の長机と共に並べられた四脚のパイプ椅子のうちの一つに座らされた。保健室の養護教諭は五十代半ばの半田という女性で、そのふくよかで優しそうな見た目から、一部の生徒からは半田ちゃんなどと呼ばれ親しまれていた。ベテランらしく、いわゆる不良から不登校までどんな生徒にでも柔軟に対応する彼女は実際生徒や学校側からの信頼も篤い。その半田が丸い手で紘一の足を触りながら、
「捻挫ね。シップ貼って固定しときましょう。ひどくなるといけないからすぐに病院へ行ったほうがいいわ。おうちの人、連絡とれる?」
 そう尋ねてくる。夕方のこの時間なら達也を塾に送り届けた母親が夕飯の準備をしているはずだ。パイプ椅子が軋んだ。
「どうなんだ? 親いるのか」
 強めの口調で鈴木が問う。家の者が誰も動けなければ自分が紘一を病院まで連れて行かねばならず、そんな面倒は御免だという顔だ。
「母が家にいると思います」
「よし。じゃあ俺が電話してやるからお前はここで待っていろ」
 鈴木は半田によろしくお願いしますと声をかけ保健室から出ていった。紘一の口から思わずため息がこぼれる。
「先輩足痛いすか? 大丈夫なんすか?」
 半田が紘一の怪我の応急処置する様子を興味深げに見ていた宮部が間の抜けた質問を投げかける。痛いからここにいて、この後病院へ行くのだ。
「痛いよ。でもちょっとマシになった。宮部ありがとう。もう部活に戻ってくれていいよ」
「そうすか。気をつけて帰ってくださいね。じゃあお疲れ様です」
 せっかくちょっと面白いことが起きたのに、とでも言いたげな顔で名残惜しそうに保健室をあとにした宮部の様子が少しだけおかしかった。心底心配されるより好奇心の相手をする方が楽なのだ。
「あの子面白いわね」
 処置を終えた半田がいかにも楽しそうにそう言いながら冷蔵庫から麦茶を取り出した。紘一にも注いでくれる。
「まあ、そこまでひどくはないと思うから、とにかく病院で診てもらって、たぶん二週間ぐらいでよくなるわよ。残念ながら練習期間はあまりとれないかもしれないけど大会には間に合うんじゃないかしら」
 その半田の言葉を聞くまで、正直なところ紘一は大会のことなどまったくといっていいほど頭になかった。これから母親が迎えに来るということ、そして部活を休めば家に早く帰らなければならず、部活に出なければ亜美の姿を見る時間が減ってしまうこと。その三つに対する憂鬱さが頭のほとんどを占めていた。
 そこへ鈴木が太いマジックペンで「不機嫌」とでかでかと書いたかのような顔で戻ってきた。その顔を見て一気に気分が下がる。
「すぐに迎えに来るそうだ。お前着替えなんかは」
「は、はい。部室のロッカーに」
「あら、じゃあこの子動けないから私が代わりに取りに行きましょうか」
「いや、さっきの一年にでも持ってこさせますよ」
 そう言うと鈴木は再び保健室から出ていった。そのすぐ後に半田も校内放送で呼び出され「まあ、ゆっくり待ってなさい」と言い残し職員室へ向かった。
 空になったコップを長机の上に置き、壁の時計を確認する。五時三十四分。
紘一がまだ小学校低学年だった頃、一度授業中に高熱を出したことがあった。その時も今回と同じように母親が迎えに来たが、病院へ向かう車内で「なんで熱なんか出すのよ、もう」と母が小さな声で悪態をついているのを紘一は後部座席で熱に浮かされながら聞いた。おそらく母は紘一には聞こえていないと今でも思っているだろう。その時の経験から紘一は体調が優れないときでも早退はおろか保健室の利用さえしないようになった。それだけに今回の自分の不注意を呪ったのだった。
 そんなふうに昔を思い出し暗い気分になっていると保健室のドアが開いた。まず半田の姿が見え、その幅の広い体の後ろに制服姿で黒く長い髪をひとまとめにした女子が立っていた。亜美だった。紘一は「たしかに彼女は今日の部活にいなかった」と心の中でひとりごちる。
 彼女の顔にいつものような生気がないことに紘一はすぐに気づいた。部活の練習中はいつもほんのりと赤く染まっている頬はただ青白く、瞳にもいつもの力強さがない。紘一が亜美を意識するようになってもうじき一年になるが、亜美のそんな姿をこれまで一度も見たことがなかった。
 半田に促されて亜美が三つあるベッドのうち真ん中のベッドに向かう。あっ、という感じで紘一の存在には気づいたが、よっぽど辛いのか何かを話すのも億劫といった雰囲気でベッドに腰掛けた。半田が亜美に向かって安心させるように背中を撫でながら「しばらく横になってるといいわ」と言い、カーテンを閉めた。亜美の姿がクリーム色のぼそぼそとした布で隠される。また無意識に亜美の姿を追っていた自分に気づき、紘一は恥ずかしくなる。不躾な視線を送ってしまったであろうことを後悔した。紘一の中で自分の足や憂鬱さよりも亜美の心配が先に立つ。
 母親が迎えに来たのはそれからすぐだった。先に職員室へ行ったらしく手には紘一の荷物を持っていた。
「紘一、大丈夫? うわ、腫れてるじゃない」
 母親は入ってすぐに紘一の側によるとテーピングをした足を見て驚いた。かなり痛そうだと感じたのか顔が歪む。
「だ、大丈夫だよ。ごめん、忙しいのに」
「お母さまですか? 私保健室の養護教諭を務めております半田と申します」
 母子のやりとりを見ていた半田が母親に話しかける。
「お世話になってます。紘一の母です。あの……、すごく腫れてますけど、大丈夫なんでしょうか、コレ」
 母親が真剣な表情で半田に尋ねる。
「走っているときに石か何かを踏んで捻挫しちゃったみたいです。大会も近いですし、悪化するといけないのですぐに病院へ連れて行ってあげてください。たぶんシップをしてしっかり固定すればそんなに長くはかからないと思います」
「そうですか。安心したあ。この子小さい頃からあまり病気も怪我もしない子だったから、さっき顧問の先生に電話貰って驚いちゃって」
 そういうと母親は本当に安心したように表情を緩めた。それは小学生の時の記憶がずっと頭にこびりついていた紘一にとっては意外なことだった。心配してくれている様子が嬉しかった。
 母の車に乗り込み学校を出ると、町で一番大きな総合病院へと向かった。その車内。
「いきなり学校から電話がかかってきたから驚いたわ。車ちょっと揺れるけど足大丈夫?」
「ごめん、母さん。夕飯の準備中だったでしょ」
「そうだけど。それより足、本当に大丈夫なの?」
「う、うん」
 紘一は弱々しい返事を返す。
「そういえば、来る途中で思い出したんだけど、小学生の頃にも一度お兄ちゃんを学校に迎えに行ったことがあったわよね。お兄ちゃんが熱出して」
 家での母親は紘一のことを名前ではなく「お兄ちゃん」と呼ぶ。紘一は自分にとって小さなトラウマになっているあの日のことを、まるで懐かしい思い出を振り返るかのような口調で話す母親と自分との間にある思い出の距離のようなものを実感した。
「そうだね。あったね」
「あの時もすごく心配したのよ。お兄ちゃんは小っちゃい頃からほとんど手のかからない子だったから」
 そう言うと母親は助手席のシートを倒して仰向けになっている紘一の顔を覗き込み微笑んだ。
 病院で一通りの診察、患部の固定などの処置をしてもらい母親が会計を済ませると、時刻は七時過ぎになっていた。駅前にある塾まで達也を迎えに行く途中、母親はコンビニに寄り、二人分の飲み物とパンを買った。ホットドッグとコーラを紘一に差し出しながら笑う。
「はい。お腹すいてるでしょ」
「あ、ありがとう」
 普段は買い食いにうるさい母親の彼女なりの心遣いは紘一をより一層戸惑わせた。思えば紘一は今日の母親の言動に戸惑ってばかりいる。十四年間どこかうまく取れていなかった母親との距離が少しだけ近づいたのかもしれない。そんなふうに思えた。
「たまにはいいでしょ。あ、これおいしい」
 自分用に買った蒸しパンを頬張って母親は嬉しそうにしている。そんな母の姿を見るのは紘一にとってはじめてのことだった。
 怪我から一週間半が過ぎて足の具合もだいぶよくなってきた紘一は陸上部の練習に顔を出した。はじめに確認したのは亜美が部活に参加しているかどうか。怪我をした日以降、慣れない松葉杖での生活で、目立つのが嫌いな紘一は校内を動き回ることもできず、彼女の姿をほとんど見ていなかったし、そもそもあの日どうしてあんなに体調が悪そうだったのかもわからなかった。知りたくても誰かに尋ねることもできず、部活を休んでいる間気になって仕方なかったのだ。
 彼女は制服姿のままグラウンドの隅に座っていた。木陰に吹く風が、さわさわと黒い髪を揺らしている。紘一のいる場所からはっきりとは見えないがまだ体調がよくないのだろう。練習をする部活仲間を見ている。
 紘一は近くに行こうか迷った。気持ちとしては当然今すぐにでも駆け寄って、体調のことやあの日のことを聞きたかった。なによりもあの日見た青白い彼女の顔を思い出すと心配でたまらなかった。だが怪我をした左足のせいで駆けだすことはできなかったし、なによりそういうふうに気軽に話しかけられる性分ではなかった。
「山岸先輩ずっと休んでるんすよ」
 まだ変声期を向かえていない高めの声が後ろから聞こえた。
「おつかれ宮部。そうなんだ。悪いの? 彼女」
 紘一は努めて冷静に振る舞おうとしたが、その試みはまったくといっていいほど上手くいかなかった。宮部に亜美を見ているのがばれているということが恥ずかしかった。
「みたいっす。もともとどこか悪いらしくて。それでこないだ、ちょうど先輩が怪我をしたのと同じ日に倒れちゃったらしくて。僕もあんまり詳しくは知らないんすけど、それから部活には来てもああやって見学していることが多いっすね」
 思わぬところで亜美の体調に関する情報を聞いたが、具体性を欠くその情報に紘一は更なる疑問を覚える。あの亜美が一週間以上部活を休むなんてひょっとしたらかなり重大な病気なのではないかと。
 次の日、紘一は開始時間から部活に顔を出したが、グラウンドに亜美の姿はなかった。色褪せた紺色のポロシャツに汗をじっとりと滲ませた鈴木が暑さからくる不快感を前面に押し出し、面倒臭そうに指示を出すと、あとは主将の小宮に任せそそくさと職員室へ戻っていった。各競技ごとに分かれ練習がはじまる。宮部がパイプ椅子を用意してくれ、紘一は昨日亜美がいた大きな楡の木の木陰でそれに座って練習を見学した。目では部員たちの練習風景を追っていたが頭の中では亜美のことばかり考えていた。
 そうして椅子に座って三十分ほどぼんやりと練習を眺めていると不意に石鹸の匂いがした。隣に亜美が立っている。そのことに気づいた紘一はゆっくりと横を見た。その視線に気づき亜美が微笑む。
「おつかれさま。足、まだ痛むの?」
「おっ、おつかれ……」
 慌ててそう返すが次の言葉が出てこない。声のボリュームの調整もきかず更に焦ってしまう。その紘一の姿を見て亜美は小さく声を出して笑う。その笑顔がまた紘一をどぎまぎさせた。
「ふふ。足、まだ治らないんだね」
「あっ、ああ。もうだいぶいいんだけど一応復帰するのは来週からって病院の先生が」
「そうなんだ。じゃあ、大会には間に合いそうだね」
 亜美はそう言ってまた微笑む。紘一は彼女の顔を直視できず、足元の砂を掻きながら頷いた。
 微かに吹いていた風がすっかり止んでしまって、かわりに蝉の鳴き声が勢いを増していく。心臓の鼓動が少し落ちついたのを感じて、精一杯の勇気を振り絞り亜美に尋ねる。
「山岸さんはどこか悪いの? その、僕が怪我した日に保健室に来てたし、昨日も見学してたみたいだから」
 亜美は白い額に小さな皺を寄せ少し考え込むようにして黙ると、ふっと力を抜き話しはじめた。
「私生まれつき血が少なくてさ。そのせいで小さい頃は何回も入院して退院してっていうのを繰り返してたの。お父さんもお母さんもすっごく心配して、この子はちゃんと育つんだろうかって思ってたみたい。小学校にあがってからちょっとずつよくなったんだけど、四年生までは朝起きるのも結構しんどかったし、ちょっとしたことで頭がくらくらすることもあったんだよ。だけど陸上をはじめて幅跳びをやるようになってからは毎日楽しくって。砂場に向かって一直線に走ってジャンプすると体が一瞬だけど自由になるの。単純だけどそれが気持ちよくて、何回も何回もやってるうちに病気のことなんてすっかり忘れてた。でもこないだ、渡辺君が怪我したのと同じ日ね。委員会の手伝いを頼まれて職員室で作業してたら急にくらっときて。ああ、私これ知ってるなぁ、嫌だなぁって思った。お母さんたちにまた心配かけちゃうって」
 そこで一旦話を切ると亜美は小さく笑う。
「それでしばらくは練習出れないんだけど陸上は大好きだからさ。こうやって顔は出してるの。他の人にはちょっと迷惑な話かもしれないけどね」
 そう言うと今度はさっきよりも大袈裟に笑顔を作る。笑っているのに少し悲しいような痛々しい愁いを含んだその表情を紘一は生涯忘れまいと誓った。
「なんかこんなこと他の人に話したことないから恥ずかしいなー、もう! この話みんなには内緒ね」
 さっきまでの愁いはどこかに消え、本当に恥ずかしそうに頬を赤くして前髪を触る亜美の横顔は幼く見えた。
 紘一は次の日も部活に顔を出したが亜美には会えず、週末を挟み翌週から部活に復帰した。

 

 ☆


「結局大会での成績は散々だったし、それから卒業まで山岸さんと一対一で話すこともできなかった。彼女は競技に復帰することなく三年になってからはマネージャーみたいな役割をしていて、本当の気持ちなんてわからないけど僕には毎日楽しそうに見えたんです。僕は彼女のその姿を見ているだけで十分だった」
 いつの間にか紘一は肩の力が抜けリラックスして話している。
「ただ、彼女との最初で最後の会話だけは忘れられないです。あの時の彼女の声、表情、すべて今でも鮮明に覚えています」
「そう。いい子だったのね。きっとあなただけに話したのよ、その話。あなたはすべてを受け入れてしまう人だから」
 ――「すべてを受け入れてしまう」か、確かにそうかもしれない。物心ついてから今日まで何かを本気で拒否することなどなく生きてきたような気がする。
 紘一はそう思った。事実、今もこうして見ず知らずの女を受け入れ海まで来て、その女の言葉も受け入れている。いや、それは女の不思議な説得力のせいかもしれなかった。
「あまり自分がないから流されやすいだけかもしれません」
「それは違うわ。流されやすい人と受け入れる人は違うのよ。例えて言うなら、あなたの中にはとても大きな袋があるのよ。自分の悲しみだけでなく他人の悲しみまで包んでしまうほど大きな袋がね。あなたは大抵のことには動じずにただじっとその袋の口を開けてそこに流れ込んでくるいろんなものを受け入れているの」
 自分の中の袋。そのイメージは違和感なく紘一の頭と体に馴染んでいった。

 

 ☆

 

 二〇一三年秋。地元の商業高校へ進学した紘一は、高校でも陸上を続けていたが、二年の冬に靭帯の怪我をして他の同級生よりも半年ほど早く部活を引退した。春先に傷が癒えた紘一は卒業後の独り暮らしの資金と車の費用を貯めるため生まれてはじめてのアルバイトをすることにした。港には幾つかの運送会社の倉庫があり、そのうちの一社で荷物の積み下ろしの補助をするというものだ。高校に入学した頃から、紘一は誰かに頼ることなく自立して暮らしていくことを強く望むようになっていた。
 夏休みの間も毎日バイトを入れて、家に帰るのは常に十時を過ぎる。紘一の家は二階建てで、一階は家族のリビングなど共有スペースと水回り、二階が両親と子供たちそれぞれの部屋になっている。その時間帯には、父親は書斎にしている和室で本を読んでいるか仕事をし、母親は台所で食器の片づけや細々した家事をしている。弟の達也は自室にいることが多い。
 その日も十時過ぎに帰宅すると一階にいるのは母親だけだった。母親は食卓で家計簿をつけていたが、紘一が玄関から台所へ入ってくるとすぐに立ち上がり夕飯の残りの麻婆茄子を温め直す。
「おかえり。お兄ちゃん、ご飯食べてからでいいから少し話せるかしら。お父さんも呼んでくるから」
 普段は滅多に見ない母親の神妙な顔に驚きつつも紘一が了解すると、母親は食事の用意に戻った。豆板醤の香りが部屋に漂い紘一の胃袋を刺激したが、それよりもいったい何の話なのかということで紘一の頭はいっぱいになる。
 紘一が夕飯を食べ終えると、母親は二階へ上がり父親を呼んだ。中年になり前後に幅の増した父親がパジャマ姿でギシギシと音を立てて階段を下りてくる。このところ慌ただしい朝の少しの時間しか顔を合わせていないせいか、紘一には父親の姿がやけに老けて見えた。
バイトどうだ? あそこの倉庫は扱っている荷物が多いらしいから大変だろ」
「うん。でもみんなよくしてくれるから大丈夫」
 父親と話すとなると紘一は少し緊張する。それは父子がこれまで十分なコミュニケーションをとってこなかったことの証左であり、それ故のぎこちなさはもはや拭えない。
「そうか。母さん、まだなにも話してないんだよな」
「ええ、さっき帰ってきて夕飯を食べたばかりだもの」
「うん。ならはじめから話そう」
 そう言うと父親は背筋を伸ばしひとつ咳払いをした。
「紘一。実は俺たちも昨日知ったんだが、じいちゃんの体調があまりよくない。具体的な病名なんかは詳しく検査しないとわからないが、今あっちで病院に入っている。ばあちゃんが付き添っているが歳が歳だから無理して二人とも入院なんてことになったら困る。それで弘子叔母さんとも話し合って、しばらく母さんと叔母さんで交代しながらじいちゃんの入院の世話をすることなった。だからしばらくの間母さんが家を空けることが多くなるし、俺も仕事で家にいられないこともあるだろう。お前と達也二人で大丈夫か」
 祖父が入院したという事実を紘一はうまく受け止められない。二カ月前の盆に家族で行った時には、これまでと変わらない様子で元気だったのだ。食欲も旺盛で毎日一時間の散歩を欠かさないと言っていた。そういえばそのときはじめて祖父に「泊まっていけ」と言われたのだ、と紘一は思い出していた。
 小学生の時以来、久しぶりに祖父母の家に泊まったその晩、夕食も風呂も済ませ紘一と祖父母の三人で居間のテレビを視ていると、紘一は祖父母の体が小さくなったことに気づいて寂しい気持ちになった。二人ともまだまだ元気だが、彼らにはすぐそこに死が近づいているのだと感じたのかもしれない。
そんなことを思い出していると急に眼の奥が熱くなり、その温度が紘一を現実に戻した。
「大丈夫。僕も達也ももう子供じゃないんだから。母さん、気にせずばあちゃんを助けてあげて」
 弘子叔母さんというのは父親の妹で、今は結婚して紘一たちの町と祖父母の家がある町のちょうど中間地点にある比較的大きな町に住んでいた。母親とは年が近く、従妹の彩奈は達也と同じ中学二年で、お互いに子供を持つ母、主婦として頻繁に連絡を取り合い情報交換をしたりしてそれなりに仲良くしているらしかった。その二人の間で話し合いそう決めたのだろう。
 週末になると母親は数日分の着替えや身の回りのものを持って慌ただしく出かけて行った。帰ってくるのは週の中頃だろう。それ以外はいつもと変わらない朝だった。達也は朝から部活で、昨夜遅くに帰宅した父親はまだ寝ているのだろう、居間には誰もいない。昼前の安穏とした秋の陽光が窓から差し込んできて、フローリングの床に庭の木の影を作っている。
 紘一はそこをペタペタと裸足で歩き台所の冷蔵庫を開けた。中には出がけに母親が言っていた数日分のおかずが小分けになって並んでおり、他には野菜が少しと卵、ウインナーなどがある。二枚だけ残っていた六枚切りの食パンに目玉焼きを乗せて遅めの朝食兼昼食にすることにした。
 昼過ぎにバイト先の倉庫に着くと、休憩所で早番の数人が昼食をとっていた。挨拶をして更衣室に入り、ロッカーに自分の荷物を放り込んで作業着に着替える。紘一が更衣室を出ると、作業員と一緒に昼食をとっていた営業部主任の玄葉が話しかけてきた。この玄葉は紘一がこの倉庫でアルバイトをするようになって以来会う度に気さくに話しかけてくれる。
「渡辺君、今日は遅番? ちょっと時間いいかな?」
「はい。一時から二番倉庫なので少しなら」
 なんだろうと思いながら紘一が了解すると、玄葉はワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出し一枚の写真を見せてきた。
「これ、僕の友人が乗らなくなるんで誰かに譲りたいらしいんだ。僕も何度か実物を見たけど、走行距離は結構いってるもののきれいに乗ってるし値段も安くしてくれるみたいだから、渡辺君どうかなって」
 写真は国内大手メーカーの車だった。夏に免許をとってから中古車のサイトを毎日のように見ていた紘一にとって玄葉の話はまさに渡りに船だ。玄葉の紹介ならきっと大丈夫だという信頼感もあった。
「え、これいいんですか? ぜひ」
「渡辺君ならきっと興味を持ってくれると思ってたんだ」
 翌週の日曜日に玄葉と一緒にその友人と会うことになった。その日のバイト中、紘一はずっと玄葉に見せてもらった車のことばかり考えていた。
 帰宅すると紘一は父親と達也が食べたらしい冷蔵庫のおかずを温め直し夕飯にした。肉じゃがのジャガイモを二つに割っていると二階から達也が降りてきた。手にはコップを持っているので飲み物を取りに来たのだろう。
「お、兄ちゃんおかえり」
「ただいま。父さんは?」
「部屋にいるよ。本でも読んでるんじゃない」
「そっか」
 達也は冷蔵庫から牛乳を取り出すとコップになみなみと注いで一気に飲んだ。紘一は黙って料理を口に運ぶ。
「なあ兄ちゃん、じいちゃん死んじゃうのかな」
 予期せぬタイミングでの弟のその言葉に紘一はすぐには言葉を返せない。口の中のジャガイモが急にひどくもそもそとした異物のように感じられた。それをお茶で流し込むと、盆に見た祖父の姿が頭に浮かんでくる。顔の皺、しみ、弛んだ肌、そういったもののすべてが死を象徴するもののように思えて、一気に達也の言葉が現実味を帯びる。紘一はそれを振り払うように、自分自身にもそう信じ込ませるように言う。
「いや、きっと大丈夫だよ」
 達也も「そうだよな」と自分に言い聞かせるように同意する。しかしその言葉が互いにとって慰めにもならない、巨大な死という存在に対する弱者の囁きにすぎないということは明らかだった。
 祖父の入院が長引くにつれ、紘一たち家族はそれぞれが心理的な距離をとるようになり、お互いに干渉せず自分たちのテリトリーを出ないように過ごすようになった。
 紘一にとって大きな変化は玄葉の友人から車を買ったことと、アルバイト先の田島運送に春から入社することが決まったことだ。どちらの変化も玄葉の存在が大きい。車を売ってくれるという友人を紹介してもらい、その後は何度か食事に連れて行ってもらい、一度は自宅にも呼んでもらっていた。手料理を振る舞ってくれた玄葉の妻は彼の朗らかな性格にぴったりの笑顔が素敵な優しい人だった。高校で取得した資格で事務系の仕事に就こうと思っていた紘一が田島運送への入社を決めたのも玄葉が誘ってくれたからだ。
「渡辺君、うちの会社は規模は小さいが堅実な商売を信条にやっている。これからは君みたいな若い人間の力が不可欠だ。玄葉に君の勤務態度や能力は聞いていたが、なに、こいつが薦めるんだから間違いはないだろうと俺は思っている。四月からまずは今まで通り現場でしっかりやってくれ。頼んだぞ」
 形ばかりの面接の時、社長の田島はそう言って紘一の右手をとり力強く握った。紘一はその分厚く熱のこもった掌に、二十代半ばで会社を立ち上げ、およそ二十年間死に物狂いで会社を経営してきた人間の人生の厚みのようなものを感じ取った。まだ十代後半の自分には想像もつかないような人生の修羅場をこの人はいったいいくつ乗り越えてきたのかと圧倒されたのだ。
 そうして株式会社田島運送への入社が決まると、紘一は年末年始を祖父母の所で過ごすことにして、三十日の昼前に家を出た。格安で譲ってもらった車は問題なく四時間のドライブに耐え、途中道がわからなくなって迷い込んだ道幅の狭い農道もなんとか抜けた。夕方に祖父の入院する病院へ着いたときには紘一は心底ほっとした。それまでで一番長い距離の運転で、やはり体に力が入っていたようだ。
 ノックをして病室に入ると室内には祖母と母親がいた。二人ともパイプ椅子に座り雑誌を広げている。
「あ、お兄ちゃん今着いたの。運転大丈夫だった?」
 母親は雑誌を閉じてそう言うと微笑む。その顔には疲労の色が滲んでいた。
「うん、途中ちょっと迷ったけどなんとか」
「そう。おじいちゃん、今検査で下に行ってるの。もうすぐ戻ってくるだろうから、それまで座って待ってなさい。お腹空いてるでしょ? 売店で何か買ってくるわね」
 母親は紘一の話は大して聞かずに病室を出ていった。
「こうちゃん、よく来たねぇ。おじいちゃん喜ぶわ」
 祖母も母親と同様に疲れが顔に出てはいたが、紘一に語りかけるその表情は昔と変わらず穏やかで柔らかい。
「達也も一緒に来るかと思ったんだけど、部活とか塾の試験もあるらしくて。ごめんね」
「いいのよ、そんな気を遣わなくて。こうちゃんもたっちゃんも、自分の世界があるんだから大事にしなくちゃ。それにこうちゃんだけでも来てくれて私もおじいちゃんも嬉しいのよ」
「うん」
 紘一は小学校三年の夏休みのことを思い出していた。自分と父親を迎えてくれたときの祖母の表情や言葉が重なったのだ。あの時も祖母は父親に「気を遣わなくていい」と言っていた。そう言いながら実は祖母が一番周りに気を遣っていたのではないだろうかという思いが、年老いた祖母の表情や声に触れたことで浮き上がってくる。するとどうしようもなく申し訳ないような、寂しいような気持ちが胸の中で膨れて紘一は何も言えなくなってしまう。
「疲れたでしょう。ほらここ座って。お茶淹れようね」
 そう言ってパイプ椅子から立ち上がり給湯室へ向かう祖母の後姿を紘一は見送った。祖母がお茶を淹れて戻ってくるのとほぼ同時に母親がサンドイッチや菓子パンを買って戻ってきた。
 祖父が看護師に付き添われて病室へ戻ってきたのはちょうど紘一が最後の菓子パンを飲み込んだ時だ。車椅子に乗り腕には点滴の管が刺さっている。検査で疲れているのだろう顔色が悪い。生気のない顔が紘一の存在に気づいて薄く笑う。
「紘一、来てくれたのか」
 看護師の手を借り自ら車椅子から降りベッドに移りながら祖父が言う。
「うん。年末年始はこっちにいるつもり」
「そうか。一人か?」
「うん、父さんも達也も忙しいみたいで……」
 祖父は短く「そうか」と言っただけだが、やはりどこか寂しげに見える。
「うちに泊まるのか?」
「そうするつもりだよ」
「母さん、紘一の布団は用意してるのか」
「あ、お義父さん、後で私が一緒にお家に行くのでそのとき準備します」
「そうか。うん」
 それからここまでくる間の話や学校の話をしているうちに祖父は疲れて眠ってしまった。
 半年ぶりの祖父母宅は痛いほど静かだった。祖母も病院に泊まることが多いからか以前は確かにあった生活の匂いのようなものがほとんどしない。それは祖母の作る料理の匂いや洗濯の匂いがしないということだけでなく、築十年に満たない家そのものがどこか疲弊したような雰囲気を漂わせ、ため息をついているような感じだった。紘一の食料など様々な買い物をした母親がせかせかと家中を歩き回ることでなんとか血が巡り出したようで、お湯と水を混ぜたときのように冷たい空気が少しずつかき回されていく。
 紘一は居間のストーブに火を入れ、ボストン型のスポーツバッグを二人掛けのソファの脇に置くと、改めて居間を見渡した。サイドボードの上には薄らと埃が積もっていた。祖母は四季折々にその時期に合った草花を飾る人だったが花瓶には何の花も挿されていない。そういったひとつひとつの事柄が、祖母や母、叔母の日々の忙しさを表しているように思えた。
 その晩、小学生の時にも泊まった二階の六畳間で、紘一は夕方に見た祖父の顔とその表情、以前の力強さが感じられない眼と体を思い出していた。幼い頃、紘一は悪戯や悪さをするような子供ではなかったが、それでも些細なこと、箸の持ち方や挨拶の仕方など、会う度に祖父は厳しく教えてくれた。その時の祖父の鋭い眼光、上手にできたときに頭を撫でてくれた大きな掌を思い出すと、それが今日会った祖父とうまく結びつかない。祖父という人間はもうあの体からは遠く離れたどこかへ行ってしまい、あそこにいるのは別の祖父らしきなにかなのではないかとさえ思えた。
 翌日の大晦日、紘一は午前中祖父母の家でゆっくりと過ごし、午後から祖父の病院へ行った。病室に着くと祖父が一人でベッドに横になりぼんやりとテレビを視ていた。紘一に気づくと祖父は「お」と小さく声に出して微笑む。昨日より眼に力がある。
「じいちゃん、寝てなくていいの?」
「ああ、今日はだいぶいいんだ」
「そっか。母さんとばあちゃんは?」
「二人で一階の食堂に行ってる。昼飯だ」
「そうなんだ。あ、これ母さんにメールで持ってくるよう言われたんだけど」
 そう言って紘一は鞄から時代小説の文庫を五冊取り出す。
「おお、ありがとう。入院してると暇なんでな。昔買った本を読んでるんだ」
 本を手に取り笑いながらそう言う祖父は嬉しそうだ。文庫本の細かい字を読んでも大丈夫なのだろうかと紘一は思ったが、これだけ喜んでいるのだからいいのだろう。
「紘一は本読むのか」
 枕元に本を積みながら祖父が尋ねる。
「時代小説は読まないけど、他はそれなりに読むよ」
「どんなものを読むんだ」
「特にこのジャンルっていうのはないなぁ。気になったものを適当に読む感じ」
「そうか。うちの書斎に古い小説があるだろ。あの中に気になるのがあれば持って帰っていいぞ。古いものばかりだがいい本もいくつかある筈だ」
 確かに祖父が書斎として使っている和室には壁一面の本棚とキャビネットがあった。そこには高価そうな本やいわゆる文豪と呼ばれるような作家の初版本なども丁寧に収められている。
「え、いいの? すごく高い本もあるでしょ」
「ああ。どれでも好きなものを読みなさい。本は読まれなければただのインクの乗った紙でしかないからな」
「ありがとう。帰ったらゆっくり見てみる」
 その後も紘一はしばらく祖父と小説談義をした。世代をこえて語り合えることがこんなにも身近にあったのかと互いに驚きながらも会話を楽しんだ。
 その日の夕方、祖父の病院をあとにしてから紘一は町をドライブした。祖父の本棚を見たいという気持ちもあったが、本という小さなものをきっかけにして祖父との距離が縮んだことが嬉しく、その余韻に浸りたかったのだ。昨夜感じた記憶の中に強く残る祖父の像と現在の祖父の姿に対する違和は薄まっていた。
 一時間ほど町をぐるぐると流すと、紘一は子供の頃に祖父に連れられて歩いた海岸に車をとめた。九年前の夏休み、祖父に連れられ歩いた道は季節が違うことを抜きにすれば、あの頃とほとんど変わっていない。
 紘一は車から降りて海から吹きつける強い風を全身に浴びた。小さな船が視界を右から左へと流れていく。漁船なのか、それとも釣り客を乗せた瀬渡し舟なのか、知識のない紘一には判然としない。ただその船が視界から消えたとき、紘一は確信していた。祖父はもう長くないのだと。
高校生活最後の冬休みが明けてから、紘一はほとんど毎日働いた。そもそも出席しなくてはいけない日も少なかったし、卒業後就職する会社でのバイトなので担任をはじめとする教師たちもとやかく言うことはなかった。
 祖父の書斎の本棚には比較的新しい小説作品や古い純文学作品、全集や哲学の本が整然と並んでいた。紘一はその中からいくつか見繕い自宅に持って帰り、新刊書店で買った仕事に役立ちそうな新書、実用書を読む傍ら、二日で一冊読むというようなペースでそれらの本をゆっくりと読み進めていった。
 冬の寒さに体を丸めてじっと耐えるような日々の中、二週間に一度、紘一は祖父の病院へ顔を出した。四時間かかった道のりを三時間で行けるようになり、はじめは不安の方が勝っていた運転にも慣れた。一月、二月は毎回祖父の病室で本について語り合った。しかし、三月初頭の朝食中に突然意識を失うと、その後祖父は何度か昏睡状態になり、その度になんとか持ち直すというのを繰り返すようになった。母親は祖母と叔母とともに祖父の元へ付きっ切りのような状態になったが、それでも父親は仕事を優先した。母親である祖母も妻である母親も、それに対して何も言わなかった。
 紘一も少しでも多く祖父の所へ行き母親たちを助けたかったが、入社前の研修と一人暮らしをするアパートへの引っ越しなどが重なりなかなか身動きが取れなかった。ようやく祖父の元へ行けたのは高校を卒業し桜も完全に散ってしまった四月の中頃になってからだ。
 久しぶりに訪れた病室には以前より医療機器が増えていた。その光景は、いよいよその時が近いのだという切迫した気持ちになるのに十分なものだった。
「今は眠っているけど、起きてればたまに話はできるのよ」
 叔母の弘子が祖父の掛け布団をなおしながら言う。その表情は暗く、父親である祖父との別れが近いことを毎日積み重ねるように実感しているのだろう、充血して赤くなった目には力がない。
 紘一は「そうなんだ」と言ったきりそれ以上言葉が出なかった。眠る祖父の顔をまじまじと見つめるわけにもいかず、プラスチック製のマグカップや吸い飲みが置いてあるオーバーテーブルに目をやると、夏目漱石の『こころ』が置いてあった。紘一はそれをぱらぱらと捲る。
「それね、三日前にどうしても読みたいっていうから近くの本屋さんで買ってきたんだけど、もうあまり体力がないから本を読むのも辛そうでね。途中になっちゃってるわ」
 叔母が昼食のため病室をあとにすると、紘一は静かに眠る祖父の横で小一時間ほど家から持ってきていた本を読んだ。金城一紀ゾンビーズシリーズの三弾目『SPEED』だった。自分には縁のなかったギラギラした青春劇を繰り広げる登場人物たちに紘一は単純な羨望を持ってこのシリーズを読んでいた。作戦決行の四日前、主人公の女子高生が高校生にして男の色気たっぷりのアギーと自動車の運転を練習している場面を読んでいるところで祖父が目を覚ました。
 祖父は紘一の姿を見て小さな声で「紘一か」と呟く。起き上がるほどの力はないのか、濁った眼だけが動いている。呼吸が少し苦しそうだ。
「そうだよ、じいちゃん。苦しい? 看護師さん呼ぼうか?」
 その紘一の問いに首を鈍く動かし否定の意を表すと祖父は一度大きく息を吐いた。
「派手な表紙だな、それ」
 ピンク、黄色、青、黒で構成された『SPEED』の装丁は確かに派手だ。それより。
「本当に大丈夫なの? 苦しくない?」
 入りの悪いラジオのように祖父の声と呼吸はざらざらしており、紘一は不安になった。
「大丈夫だ。最近はいつもこんな調子でな。それより仕事はどうだ?」
 実際がどうであれ祖父にこれ以上何を言っても大丈夫だと言うだろうと紘一は感じて、話を続けることにした。無理やりに明るい調子を作る。
「うん、バイトしてたところだけど、やっぱり正式に働くとなると覚えることがたくさんあって大変だよ。でも面白い」
「そうか。まずは一通り仕事を覚えないとな。何かあっても腐らず真面目にやってればきっと誰かが見ててくれるものだ。頑張りなさい」
「うん。真面目にやるよ。約束する」
「ああ、お前は昔から優しい真面目な子供だったからな。お前ならきっとうまくやっていける」
 言い切ったと同時に咳き込み祖父の呼吸が荒くなる。一気に顔が土気色になっていく。紘一は焦ってナースコールを押した。
 それからすぐに看護師が駆けつけ祖父の周りを取り囲んだ。専門用語が飛び交う中、紘一は医師たちの邪魔にならないよう病室を出る。見たことのない光景と祖父の苦しそうな様子にひどく動揺していたが、ひとまず病院の建物から出て母に電話をかける。状況を説明してすぐに病院に来てほしいと伝えると叔母を探した。
 叔母はデイルームで紙コップのお茶を飲んでいた。その後姿に活力はなく、横顔は実年齢以上に老けて見えた。紘一に気づき微笑んだがその表情もぎこちない。
「おばちゃん、じいちゃんが意識失くして今お医者さんが診てくれてる」
 その紘一の言葉を聞いて叔母は一度顔を伏せると一つ息を吐いて「そう」とだけ言った。
 祖父は面会謝絶になり、紘一たちは無言で待機室のベンチに座っていた。病室で何度も顔を合わせていた看護師の一人が祖父がICUに移ったことを報せてくれたすぐあとにやってきた母と祖母、叔母の三人は同じベンチに座り叔母は祖母の手を握っている。
 そうしてどれくらいの時間が経ったか。待機室の壁掛け時計が夜中の一時をさした頃、駐車場まで迎えに出ていた母に伴われようやく父と達也が現れた。それまでに集まっていた叔母家族、落ち着かないのか何度も席を立ち煙草を吸いに外に出ている叔母の夫義人と病院に着いてからずっとスマホを弄っている一人娘の理恵もただ待つしかない状況に疲れた顔をしていたが、それよりもっと疲れ苛立っていたのは叔母だった。ベンチから立ち上がり和博に向かって静かに詰め寄る。
「兄さん、夕方には危ない状況だって連絡したのに今まで何やってたの? 母さんも私も、義姉さんだってずっと不安だったのに。高校を出たばかりの紘一がこうやって何回も来てるのに兄さんは何? 仕事が忙しい? 偉そうにしてても兄さんは逃げてるだけなんじゃない? 私と義姉さんに母さんと父さんのこと押し付けて。自分の父親が危ないって時に長男が仕事だからなんてそれらしい理由つけて逃げ回ってるなんて情けないわ」
 これまで溜まりに溜まった感情が爆発したのか、この状況での不安も相俟ってその目には涙が浮かんでいる。祖母の温和な性格を引き継いだかのような弘子の普段はまったく見せない苛烈な一面にその場にいた全員が驚く。
 それは兄である和博も例外ではなく、一瞬呆気に取られてはいたが、時間差で弘子の追及が頭に入ってきたのか怒りと羞恥から顔を赤くなっていく。紘一はそんな父親たち兄妹の姿を見て心臓を掴まれたように息が苦しくなった。
 父親が何か言おうとした瞬間、祖母が「やめなさい!」と小さく叫んだ。
「お父さんが大変な時になんですか。みっともない」
 室内が静まり返る。叔母は祖母の横に座り手を握ると小さく「ごめんなさい」と呟く。一方の父親は誰の目も見ず「医者の話を聞いてくる」と言うと部屋を出た。

 

 なんとか祖父は持ち堪えたように思われた。医師から説明を受けて一安心したのか顔色の悪い祖母を母が自宅に連れていき、叔母家族も一旦自分たちの家へ帰っていった。病院の夜間通用口で叔母たちを見送ると、父親が珍しく自分が病院に残るからお前たちは一度家に帰れと言った。今日の家族の様子になにか感じたのか、叔母の追及を受けてなにか心境の変化があったのかはわからないが、紘一は黙ってそれに従うことにして達也とともに自分の車に乗りこんだ。
「俺、兄ちゃんの運転する車に乗るのはじめてだ」
 助手席の達也が笑いながら言う。眠そうだ。
「そうだっけ。安全運転で帰るから安心して寝てていいよ」
「わかった。じゃあ、よろしく」
 そう言うと達也はシートを倒し目を閉じた。
 小さくかけたFMラジオと達也の寝息が聞こえるなか、一時間ほど車を走らせるとドリンクホルダーに放りこんでいたスマートフォンが振動した。画面には「母」と表示されている。紘一は嫌な予感を抱きながら車を路肩に停めると通話をタッチした。
「も、もしもし」
『もしもし、お兄ちゃん? お母さん。今運転中?』
「いや、停まってるから大丈夫だよ。どうしたの?」
『落ち着いて聞いて。今病院にいるお父さんから電話があって、おじいちゃんの容体がまた急変したらしいの。これからお母さんはおばあちゃんとまた病院に戻るけどあなたたちどうする? 明日はあなたも仕事があるだろうし達也も学校だけど』
 紘一は「やっぱりか」と心の中で呟く。
「僕は明日休みもらえると思う。達也は学校どうなんだろう」
「俺も休むよ。じいちゃんやばいんでしょ」
 電話の声のせいか、いつの間にか目を覚ました達也が紘一の目を真っ直ぐに見つめそう言った。
「あ、母さん、達也も学校休むって言ってるから僕らもそっちに引き返すよ」
『そうね、その方がいいかも。それじゃあ病院で待ってるわね』
「うん。たぶん一時間ぐらいで着くと思う」
『あ、お兄ちゃん。あなたたち一度家に帰って黒のスーツと制服を持ってきなさい。考えたくないけど必要になるかも知れないから』
 きっと必要になるだろう。それはもう確信といってもよかった。
 地元に戻り、実家で達也を降ろすと、紘一は借りて間もない自分のアパートに向かった。
 アパートに着くと時刻は朝の五時を過ぎたところだった。徹夜のうえ神経を使ったからか体は重かったが、冷たい水で顔を洗うと、スーツを抱え、スマホの充電器など他に必要そうな細々としたものを持って部屋を出る。空はまだ完全に明るくはなっておらず薄らとした湿気を帯びて一日のはじまりに備えていた。

 

 その日の夕方、祖父は他界した。
 通夜と葬儀には多くの人が参列した。紘一が暮らす町の有力者のほとんどがあつまっているといってよかった。紘一にとっては長く町議会議員を務めた祖父の小さな町での人脈を改めて知る思いだ。
 通夜から葬儀にかけて、祖母は時折目に涙を浮かべながらも、参列者の一人一人と話をして上辺を撫でるような弔いの言葉に頭を下げていた。父親と叔母も同様だった。母親は裏方のように雑務をこなしている。紘一にはそれが父親であり亭主である偉大な一家の大黒柱を亡くして悲しみながらも気丈に振る舞う家族という演技に見えた。事実父親は時折弔問客に見えないようにうんざりしたような表情をしていた。紘一たち孫にも幾人か祖父と同年代の老人たちが話しかけてきて、「残念だ」とか「お祖父さんには世話になった」となかば一方的に話しては席を離れていったが、紘一には彼らの話が自分の中の祖父の像とは上手く結びつかず、ただ曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
 葬儀が終わり、遺体の火葬を済ますと紘一たちは祖父母の家に戻った。明日には祖母を連れて先祖代々の墓がある紘一たちの町に納骨をしに行くことになる。他の親族が居間や台所でそれぞれに過ごす中、紘一は祖父の書斎にいた。本の匂いが紘一を落ち着かせる。胡桃の木でできた机とともに長年祖父が愛用していた革製の椅子に座り紘一は眼を閉じた。
 七十七年の生涯に幕を閉じた祖父。高校を出たばかりの紘一にとって七十七年という歳月は気の遠くなるようなものだ。田島同様祖父にも山があり谷があったのだろうが、その人生がどんなものだったのか紘一はほとんど知らない。
 そもそも幼少期からそれほど親密な関係を築けていなかったのだから当然のことだった。それでも、紘一の記憶の中には祖父の厳しさや優しさが刻まれている。そして祖父が入院してから病院で共にした時間。本について話してくれた時間が温かみを伴って思い出された。しかし、それは自分にとっての祖父であり、立場の違う人間からすればまた別の顔があるであろうことは容易に想像できる。たとえば役場の元同僚。上司の紹介で見合い結婚した祖母。葬儀の席で紘一たちに話しかけてきた人々。父や叔母にとって、母にとって、祖父はどんな人だったのか。それぞれが各々の渡辺清という人間の印象を自分の中で作り出し今という時を迎えているのだ。それがよい姿であるか悪い姿であるかは作り出した本人にしかわからない。それなら祖父が自分自身の内面を見つめた姿というのはいったいなんなのだろうか。他人が作り上げた印象とは違い、真実の姿なのだろうか。それとも、やはり一人の人間が作り出した印象の集合体にすぎないのだろうか。
 閉じた眼の奥と脳が異常に近づいているような感覚に襲われながら紘一はとりとめなくそんなことを考えていた。祖父のことを考えていたはずが、人生そのもののこと、そして人間という存在そのものへと思考は飛躍しようとしていた。

 

 ☆


「あなたなりによくやっていたと思うわ」
 女の言葉はまるでそのときに現場で見ていたかのような確信のこもった言い方だった。
「僕はただそこにいただけです。母や祖母を支えることもできなかったし、祖父にとってなにか助けになるようなことをしたわけでもない。人間は死の前では圧倒的に無力で、真実分かり合ったり慰め合ったりすることもできない。人はそれぞれ別々の世界に生きているみたいにばらばらだから」
 そう吐きだすと紘一の目に涙が浮かんだ。辛うじて溢れ出すことを踏みとどまっている。
「そうかもしれないわね。人は真実分かり合うことなんかできないのかもしれない」
 堪えきれずに涙が溢れた瞬間、女の白く細い指が紘一の頬に触れた。ひんやりとした感触が優しく熱をさらっていく。紘一の滲んだ視界からはその表情は読み取れない。紘一の涙がひくまで女は黙ったままそうしていた。紘一もそれを受け入れていた。家族とさえ経験したことのないほどの親密な空気が狭い車内に広がる。否定したばかりの人と人の心からの繋がりを信じてしまいそうなほどに。

 

 ☆

 

 納骨から一週間が過ぎ、紘一は職場に復帰していた。
 復帰初日、アルバイトから社員になったばかりの時期に仕事を抜けることになったことを詫びる紘一に、皆「大変だったな」と声をかけてくれた。
 倉庫の空気が体に馴染んでくるのを感じて、紘一は日常がかえってきたことを自覚した。正直なところ、この一週間コンビニの店員以外誰とも話さず、一人でアパートにこもって祖父のことや人生のことを考え続けていた紘一には再び日常に戻ることが恐ろしくもあった。あまりに自身の思考という海の中に深く潜ってしまったため日常という海面に浮上したときに呼吸が苦しくなってしまうような気がしたのだ。
 

 午前中の仕事を終えて昼休みに食堂で玄葉の顔を見ると、何故か紘一は泣きそうになった。そこまで長い付き合いでもなければ、何かを分かち合ったわけでもない、よくしてくれる会社の先輩というだけの玄葉がこれほど紘一の感情を揺さぶるのは、玄葉自身の人柄もあるが、祖父や史郎たち、つまり紘一のこれまでの人生で大切にしてきた人たちと同じ匂い、雰囲気のようなものが玄葉にあるからだろう。
「いろいろと大変だろうけど僕でよければ何でも相談して」
 愛妻弁当をつつきながらそう言ってくれた玄葉に、
「ありがとうございます」
 と頭を下げ、紘一は玄葉になら今自分が抱えているこの胸のうちの考えを話してみてもいいかもしれないと思った。
「あの玄葉さん。実はちょっと話したいことがあって」
「うん。なんだかそんな感じだね。職場ではなんだから今度改めて聞くよ。それでいいかい?」
「もちろんです。お願いします」
 玄葉は紘一の雰囲気から何かを察したのだろう。すんなりと返事をすると弁当に集中した。紘一も仕出し弁当を黙々と口に運ぶ。
「じゃあ、また連絡するよ。午後からもよろしく」
 そう言うと玄葉は食堂を出て営業に戻っていった。
 その週の金曜日、紘一は仕事終わりの玄葉と駅前の居酒屋で会った。まだ未成年で公には酒を飲めない紘一でも楽しめる料理が充実した店だ。紘一が店に入ると、玄葉は座敷席の一番奥の卓で手帳に何かを書き込んでいた。「お疲れ様です」と声をかけながら靴を脱ぎ座敷に上がる。
「お疲れ。なんだか今日は蒸し暑いから先に入っちゃったよ」
「いえ、確かに今日は蒸しますね。明日は雨かなぁ」
「とりあえず何か頼もう。はい、メニュー」
 玄葉はビールと好物のたこわさ、鶏の軟骨の揚げ物などを頼み、紘一は白いご飯とおかずになりそうな魚の開きやから揚げを注文した。
 祖父の死後、あまり食欲がなく自分のアパートに戻ってからは日に一度コンビニ弁当をもそもそと口に入れるだけでまともな食事を摂っていなかったが、この日は無性に腹が空いていた。日常に戻って一週間を無事乗り切れたことで精神的に少し楽になったのかもしれない。
 お通しと飲み物が届いてひとまず一週間の仕事に対して互いにお疲れ様を言い合う。
「久しぶりに出勤してみてどうだった? 結構疲れた?」
 中ジョッキのビールを三分の一ほど飲んで玄葉が尋ねる。
「いや、主任も他の人も会社の人たちはみんな変に気を遣ったりせず今まで通り接してくれるので気も楽ですし、大丈夫でした」
「自分でも意外だった?」
「実はそうなんです。もっと、こう違和感みたいなものを感じるのかなって思ってたところがあって」
「違和感か。前に言ってた話したいことっていうのはそれ?」
「そうなんです。あの……」
 紘一が話そうとしたときに注文していた料理がどんどん運ばれてきた。美味そうな匂いが胃を刺激する。
「美味そうだな。腹減ってるだろ? まずは食べよう」
 それからは玄葉が仕事で経験した挫折や失敗を笑い話を交えつつ話し、紘一はそれを聞きながら美味い料理を十分に味わった。
 一度トイレに立った玄葉が戻ってきて座布団に座ると、紘一の目をしっかりと見据えた。玄葉は誰と話すのにも必ず相手の目を見る。普段は柔らかな物腰だが、その目にはどこか田島社長に似た力強さが宿る。やはりやり手の営業マンなのだ。
「そろそろ本題に入ろう。話というのは、さっき言ってた違和感のことだよね。何か思うところがあるんでしょ」
 紘一は祖父の死後、仕事を休んだ一週間の間に考えたこと、そして自身の中で湧き上がった疑問を玄葉にぶつける。
「祖父が死んで、葬式にはたくさんの人が来たんです。祖父はこの町の町議を何年も務めた人だったから。それでその人たちが言うんです。『お祖父さんは立派な方だった』とか『お世話になった』とか、そういうことを。でも僕にとっての祖父とその人たちが語る祖父という人間が僕には同じだとは思えなくて。仕事とプライベートの違いとかそういうのじゃなく、もっと根本的なところでの一人の人間をめぐるそれぞれの見方というか、印象の話で。それで思ったんです。それぞれが祖父に対して違う印象を持っているんなら、祖父という人間は本当に一人なんだろうかって。祖父自身が自分に対して抱いていた印象というか、それぞれが思ってる自分自身というのはなんなんだろうって。葬儀が済んだ夜、祖父の書斎でずっとそんなこと考えていて。それから初七日までの間一人でアパートに籠っていると、今度は祖父を自分に置き換えて考えるようになって、僕という人間は誰かの印象の集合体に過ぎないんじゃないかって、そんなことばかり考えるようになってしまったんです。じゃあ僕が自覚しているこの渡辺紘一という人間はいったい何なんだろうって。仕事に復帰すると会社の人たちのことが怖くなるんじゃないかって思っていました。みんなが僕に持っている印象と自分自身との間にある溝というか境界線のようなものに違和感を覚えるかもしれないと思っていました。……実際は思いの外すんなり戻れて自分では驚いているんですけど」
 一気に吐き出すと紘一はグラスの烏龍茶を喉に流し込んだ。生まれてはじめて誰かに自分の内面を晒したからか、喉がざらざらしているような、ヒリヒリしているような感覚がある。額に浮かんだ汗は店内の空調のせいではない。
 玄葉はしばらく黙って紘一が話したことについて考えているようだったが、残っていたビールを飲み干し軽く咳ばらいをして静かに話しはじめた。
「今度ね、子供が生まれるんだ」
 意表を突かれたというか、予想していなかった言葉に紘一は一瞬驚いたがすぐに「おめでとうございます」と言った。
「ありがとう。うちのカミさん、明るい人だけど実はあまり身体が強くないから僕も不安だったんだけどね。妊娠がわかっていろいろと準備を進めてさ。少しずつお腹が目立つようになっていくうちに驚くぐらい変わったよ。それこそ印象っていうのかな。自分より弱いと思っていたカミさんがどんどん逞しくなっていくんだ。ああ、この人は母親になるんだなって思ったよ」
 玄葉がゆっくりとそこまで話すと店員が追加のオーダーをとりにきた。玄葉が日本酒を注文する。
「それでね、そんなカミさん見てると自分ももっと頑張らないとな、この人と生まれてくる子供のためにもっとやらないとなって思えてくるんだよ。こんなこと一回り以上年の離れた渡辺君に言うのは少し恥ずかしいんだけど、一年ぐらい前まで正直仕事が嫌になっていたんだ。毎日毎日得意先を回って頭を下げて楽しくもない酒を付き合いで飲んでっていうのに疲れていたんだと思う。そんな時倉庫に渡辺君がバイトで入ってきて、自分が十代だった頃のこととか、カミさんと出会った頃のこととか思い出してね。ああ、自分はこのままじゃダメだって思うようになったんだよ。だからさ、渡辺君には感謝してるんだ」
「と、とんでもないです」頭を下げた玄葉に動揺しつつも、紘一は玄葉のような人間でもそんなふうに思うことがあるのかと思う。
「そうやってもう一回頑張ってみようと思ってた時にカミさんの妊娠がわかってね。凄く嬉しかったなぁ。これまで以上に頑張ろうって気になったよ、ってこれはさっきも話したか」
 酔いが回ってきたかなと笑いながら玄葉はコップの日本酒をちびりと飲んだ。
「うん、よし。話しがだいぶずれてしまったけど、僕はこう見えて結構単純な人間だから自分が見ているものだけを信じてる。僕にやる気を取り戻させてくれた渡辺君が僕の知ってる唯一の渡辺君だし、カミさんだって生まれてくる子だって自分にとって唯一の存在だ。それはもちろん渡辺君自身や会社の他の人間が抱いている人物像とは違うかもしれない。だけど、僕はそれで構わないと思っているよ。でもそうやって渡辺君がいろんなことを疑問に思ったりすることっていうのはいいことだと思う。僕ももっと若い頃、社会や人生の疑問ってたくさんあったしね。だけど仕事で責任が増えたり自分の家族ができたりするとそういうことを考えられなくなってしまうことも多い。だから今のうちに多くのことを考えて吸収するといいよ」
 照れくさそうに「僕はそう思うよ」と小さく言って残っていた酒を喉へ流す玄葉を見て、紘一は心底この人に話してみてよかったと思っていた。自分とは違う価値観、ものの見方を否定せずにいてくれる。それどころか肯定してくれる。それが嬉しかった。

 

 ☆


「それからは不思議と生や死についてあまり考えなくなりました。正直考え続けるのがしんどかったのもあるけど、毎日仕事をして食べて眠る。そうやって日々を過ごしていこうって思って」
「……そう」
 短く言うと女は再び海を見つめた。紘一の目にもう涙はなく、少し充血した瞳と頬に残る二本の筋が名残のようにしてそこにあった。女が海を見つめたまま言う。
「やっぱりあなたにも人生と呼べるものがあったじゃない。人は誰だってそうよ。長かろうと短かろうと、その人が生きてきたなりに何かがあるものなの」 
 その声の引力に引っ張られるようにして紘一は女の横顔を見つめる。その視線に気づき女が紘一の方を見た。その目は月明かりを受けてどこまでも深い。
 ――もしこの瞳の中に入っていけたなら……。
 紘一はこの不思議な女の引力に完全に負けてしまいそうになっていた。会ったばかりの名も知らぬ女を心の底から愛してしまっている。それは余計なものが何もない、どこまでも素朴な感情だった。
「少し外に出ましょう」
 女はそう言うと助手席のドアを開け車から出る。紘一もあとを追うようにして外へ出た。海面を渡り山へ向けて吹きつける風が体をすり抜けるようにしてごおっと鳴って紘一の聴覚を一瞬奪った。
 階段を下りて砂浜を歩く。波が打ち寄せる十数センチ手前で女は立ち止まった。冬の澄んだ空気は月の光をよく通し女の体の輪郭に幻想的な威厳を持たせている。
「風が強いわね」
 囁くような小さな声だったがまるで耳のすぐ横で話しているかのように聞こえた。女は続ける。
「あなたがこれまで生きてきた人生の中で出会った人、別れた人、それぞれがあなた自身よ。人は自分の中だけでなく他人にも自身を投影するものだから。あなたは渡辺紘一という一人の人間でありながら世界そのものでもあるわ。それはあなた次第でどこまでも広がっていく世界」
 音として鼓膜を震わせるのと同様に女の言葉は紘一の心を震わせた。意味を通り越して考える余地がないほどその声、言葉は紘一の芯を捉える。
「あなたはあなたが思っている以上に自由よ。自分のためだけに生きることも、誰かのために生きることも、なんだって選べるわ。自分や他人に縛られる必要なんてまったくないの」
 それだけ言うと女は海を見つめて黙りこんだ。紘一もそのすぐ隣で暗い海を眺める。冷たい風にさらされた耳の感覚が怪しくなってきた頃、女が不意に前へと歩み出た。「あ……」と言う間もなく海水の中へと女がその細い足を踏み入れる。そのまま腰のあたりの深さまで進むと振り返り、紘一に向かって右手を差し出した。海水の温度は限りなく零度に近いはずだが、女の体は一切震えることなく、まるで温水に身を浸しているかのように泰然としている。そのあまりに自然な振る舞いがこの状況の突飛さを忘れさせる。
 一瞬躊躇したものの女が差し出したその手に誘われ、紘一も自ら海へと足を踏み入れた。身を切るような冷たさを覚悟していたが、くたびれたスニーカー越しに紘一の足を包んだ水は仄かに暖かい。
 海水で重くなった作業ズボンとスニーカーのせいで少し歩きづらかったがなんとか女の傍まで行き、ごく自然に差し出された女の手を取った。その手の平から全身へ懐かしいような不思議な温もりが広がっていく。
 女がまるで絵画に出てくる慈悲深い女神のような笑みを湛えて紘一を見る。得体の知れない柔らかな力で紘一は女に引き寄せられ、手を取ったまま胸と胸を合わせるような格好になった。月明かりに照らされ青白い女の額が顎のすぐ下にある。不思議と緊張はなく、むしろこれまで生きてきた中で最も自然で違和感のない状態にあると紘一は感じていた。
 いつの間にかずっと聞こえていたはずの波の音が聞こえなくなっている。風の音もどこかへ消えてしまったようだ。聞こえるのは紘一自身の体が活動する音、そして女の鼓動だけだった。それすらも薄らと遠のいていくような感じがする。どれくらいの時間が経ったのかもわからない。時間は細切れになり、同時に大河のような連なりを得て瞬間はその流れに文字通り一瞬で呑み込まれては生まれ続けた。世界は崩壊と再生を繰り返しているかのように曖昧で、だが厳然としてそこにある。
「私の名前は――」
 女が何か言ったような気がした。しかし紘一にはそれが何と言っているのか上手く聞き取れない。
 ――さっきはあんなに小さな囁き声も聞き取れたのに。
 紘一が口惜しげに思っていると目の前を真っ白な光が包んだ。
 海岸線を数キロにわたって照らしたその光は、静かに収縮し、やがて消えてしまった。